2009/6/25 木曜日

今日の一品(ナンnan)~蛍池のカトマンドゥ~

Filed under: グルメ情報 — sukekawa @ 13:14:34

蛍池カトマンドゥ

 今日の昼は、ネパール料理だ!

 蛍池にあるカトマンドゥという店で、ナンをご馳走になった。

 P1002446.JPGナン

 ここのナンは少々甘みが強く、外側はパリパリで中シットリ!美味い!:D

 元来パン好きだから、ナンは大好物!ナンとカレーの組合せがまた良い!

 今度は、赤ワインと一緒に食べたいなぁ!

 社長!ご馳走してくれてありがとう!今度は、ワインも飲みたいなぁ!

 お店の情報は以下からどうぞ!

 http://www.wombat.zaq.ne.jp/masala/index2.htm

 http://www.wombat.zaq.ne.jp/masala/kathmandu.htm

  

2009/6/23 火曜日

三木清の人生論ノート~娯楽について~

Filed under: 人生論ノート — sukekawa @ 8:05:17

 デイサービスや入居施設でも娯楽が行われている。

 わたくしは、これらの介護施設では、どうも子供じみた娯楽が多い様な気がしてならない。自分はあんなの嫌だなぁって見ながら思っている。

 三木清曰く、『娯楽というもは、簡単に定義すると、他の仕方における生活である。・・・中略・・・この他とは元来宗教的なものを意味していた。従って人間にとって娯楽は祭としてのみ可能であった。』

 そもそも、娯楽とは近代的な概念だそうだ。

 『娯楽というものは生活を楽しむことを知らなくなった人間がその代わりに考え出したものである。それは幸福に対する近代的な代用品である。』

 結局、近代社会において娯楽は・・・

 『娯楽はたんに、働いている時間に対する遊んでいる時間、真面目な活動に対する享楽的な活動。』ということらしい。

 さて、介護サービス等の利用者は既に働かなくても良くなったひとや働けないひとが多い。

 それでは、上記の労働を前提とした娯楽の定義は通用しないかも知れない。

 『生活を楽しむことを知らねばならぬ。「生活術」というのはそれ以外のものでない。』と三木清は言う。

 確かにそうだ、食事をとる、風呂に入る、本を読む、テレビをみて雑談して、昼寝をして・・・そんなたわいもないことを楽しむ術(すべ)が必要だ。

 『生活術・・・中略・・・は技術であり、徳である。』

 そして、技術とは・・・『どこまでも物の中にいてしかも物に対して自律的であるということが技術の本質である。』

 『生活の技術も同様である。どこまでも生活の中にいてしかも生活を超えることによって生活を楽しむことは可能になる。』

 デイサービスや介護施設等に必要なのは、この「生活術」ではないだろうか?

 シンプルに、楽しい充実した食事をすること。のんびりと入浴を楽しむこと(入浴後の休憩も含めて)、お喋りをすること、テレビを見ること、音楽を聴くこと等々、そんな何気ない生活を楽しむための技術・工夫が求められている。

2009/6/22 月曜日

三木清の人生論ノート~健康について~

Filed under: 人生論ノート — sukekawa @ 7:07:58

 健康産業がある、福祉も、介護も、医療もある意味で健康に関係している!健康って言葉が氾濫している。

 これらの業界では健康は至上価値を有するものであり、それは、客観的、物理的に特定できる疾病や障害がないということに他ならない。

 そして、健康になるためにも、客観的、科学的な根拠に基づき、生理学的、栄養学的な規則に従わなければならないとする。

 わたしは、この考えに少々違和感を感じている。もちろん、革命や正義や信念のために健康どころか一命を賭けて戦い、散っていくという極端な事例だけをいっているのではないが・・・

 健康は確かに大切だが、至上価値か?また健康になるための規則は一律であるのか?

 三木清曰く、『誰も他人の身代わりに健康になることができぬ、また誰も自分の身代わりに健康になることができぬ、健康は全く銘々のものである。』

 『かように健康は個性的なものであるとすれば、健康についての規則は人間的個性に関する規則と異ならないことにあるであろう。』

 『即ち先ず自己の個性を発見すること、その個性に忠実であること、そしてその個性を形成していくことである。』

 一律に、安易に、「こうすれば、健康になれる!」「こうしなければ病気になる・・・」等々と言うのは簡単だが、それでは、すまないことも多々ある。

 健康ということが個性に関連し、その個性の形成というのは、その人なりの価値観が反映されているはずだとするならば、健康について、科学的視点だけで捉えるのは問題だろう。

 このことは福祉や介護の世界でも問題となっていると思うが・・・例えば、お年寄りの介護を巡り、看護師と相談員等が鋭く対立することがある・・・

 『病気や健康は存在判断でなくて価値判断であるとすれば、それは哲学に属することになろう。』

 『健康は目的論的観念であるとすれば、そのことによってまさにそれは科学の範囲を脱することになるであろう。』

 もちろん、健康について、全く科学的、客観的事実、知識が無駄だというのではない。

 ただ、健康については科学の範囲を超える領域もあるということを尊重しなければならないということだ。

 健康であって初めて有意義な生活(目的)を送ることができる。

 しかし、有意義な生活(目的)のための健康であって、健康(目的)になるための生活(手段)ではないと考える人もいるはずなのだ。

 

2009/6/21 日曜日

三木清の人生論ノート~噂について~

Filed under: 人生論ノート — sukekawa @ 9:18:08

 わたしたちは噂の中で暮らしているといって良い・・・芸能人ネタ、政治ネタ、業界ネタ、利用者ネタ、職場内のネタ等々噂に囲まれている!

 自分のことがいろいろと噂になっていて、知らないのは自分だけってことがよくあるしなぁ・・・

 『噂はあらゆる情念から出てくる。嫉妬から、猜疑心から、競争心から、好奇心から、等々。噂はかかるものでありながら噂として存在するに至ってはもはや情念的なものではなくて観念的なものである。』

 福祉・介護サービスの世界でも、「あの施設は・・・、あそこのケアマネは・・・、あの施設長は・・・、あそこの食事は・・・、あそこの施設で事故があったらしい・・・」等々、噂が広がり、噂に囲まれている。

 しかも、現代は人々の口をかいした噂だけではなくネット上での噂も多い。

 この噂はひとに情念があるかぎり消し去ることはできない!ってことだ。しかも、その噂ってのは誰にも責任がない!

 でも、噂話が大好きな人っていますよね。こんなひとは個性がないっていうのか?ありきたりの表現、反応を示す薄っぺらさを感じてしまう。

 噂が満ちあふれた職場は、薄っぺらな職場だ!たとえどんな高尚、高邁な理念をかざしていようとも・・・

 さて、『噂は永続するに従って神話に変わっていく。』と三木清はいう。

 『噂として存在するか否かは、物が歴史的なものであるか否かを区別する一つのしるしである。』

 サービスのブランド化が注目されているが・・・

 神話となったサービスも、この怪しい噂、つまり、人々の情念(嫉妬、猜疑心、競争心、好奇心等々)が入り口だってことだ。

 『あらゆる噂の根源が不安であるというのは真理を含んでいる。ひとは自己の不安から噂を作り、受取り、また伝える。』

  『不安は情念の中の一つの情念ではなく、むしろあらゆる情念を動かすもの、情念の情念というべく、従って情念を超えたものである。』

 サービスを神話化するためには、ひとの不安について深く洞察すべきだと思う。

 ディズニーにしても、リッツ・カールトン等々の感動的なサービス神話(物語)の多くは、あるひとの抱いていた不安への対応だったといえるのではないだろうか?

 噂を作り出し、伝達し、受け取るのではなく、流通している噂の底にある情念とさらにその奥底にある不安について思いをはせる必要がある。

 

2009/6/20 土曜日

今日の一品(レバ刺)~熊本「おんの字」~

Filed under: グルメ情報 — sukekawa @ 8:29:57

 セミナーのために熊本に来ている!

 熊本はやはり、馬刺しでしょう!

 昨夜は最高の(馬の)レバ刺しを食した。感動ものだ!

 レバ刺し

 新鮮なレバ刺しをごま油につけて食すのだが、このごま油に少々塩が入っているのが良い。日本酒にあうのだ!

 レバ刺しタレ

 店の名前は「おんの字」でお店のコンセプトは味のテーマパークだとか!

 アパレルデザイン界出身の店主、叩き上げの板前、魚屋出身の若手の3人で営む和風居酒屋だ。

 寿司料理店で修行したという板前が作る料理、天ぷらも、刺身もアユの塩焼きも美味しかった。出てくるモノ全て美味しいのだ!

 アユ

 さらに、日本酒や焼酎も豊富!

 私は日本酒だったが、薦め方が適切!夢見心地だった。店長を始めスタッフが若くて生き生きしているのも好感が持てる!

http://www.asahibeer.co.jp/area/search/shop.psp.html?CODE=93172735

http://onnoji-onnoji.blogspot.com/

2009/6/17 水曜日

三木清の人生論ノート~成功について~

Filed under: 人生論ノート — sukekawa @ 22:18:17

 三木清曰く、『成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。』

 社会的成功者が幸福な人だっていう暗黙の理解ができあがっている?少なくても成功できなかった人は幸福ではないって自然に思わされているような気が確かにする。

 ひとの幸福を考える時、成功と幸福とを並べてその相違を考えるのは確かにヒントになる。

 『成功というものは、進歩の観念と同じく、直線的な向上として考えられる。しかるに幸福には、本来、進歩というものはない。』

 『幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。』

 『純粋な幸福は各人においてオリジナルなものである。』

 なんとなく、わかったような気になる言葉だ!当たり前だけれど、「成功≠幸福」なのだ!

 世の中的に、事業を拡大し、利益を上げている実業家が成功者だろう。

 医療・福祉・介護の世界でもこのような実業家・成功者はいる!しかし、ほとんどの職員はこの成功者とはほど遠い!残念ながら???・・・

 じゃぁ、成功を追求しなくても良いのか?何をもって成功というのか?個々人によって違うだろうが・・・

 事業にしても、仕事にしても将来に向けて進歩しようとすることは大切なことだと思う。 

 幸福になれるかどうかは別問題として・・・ わたしは、仕事において、きちんと成功を追求するべきだと思っている。だから、何が成功なのか?を常に問うべきだと思う・・・

 人事考課でいう業績考課、成績考課等はこのことを主に目指しているのだろう!

 しかし、誰もが成功するとは限らない・・・

 『一種のスポーツとして成功を追求する者は健全である。』この言葉はいいなぁ

 人事考課はスポーツです!一定のルールがあるスポーツなんですぅ!

2009/6/16 火曜日

三木清の人生論ノート~嫉妬について~

Filed under: 人生論ノート — sukekawa @ 10:33:44

 この「嫉妬について」という章にはやたら、線を引いたり、ページの角を折ったりしている。よほど、学生時代に気になったのだろう。何かに嫉妬していたのかなぁ?

 思春期にはまだ個性が形になっていない・・・その焦りが嫉妬深さを招いたのかも知れない・・・

 『嫉妬は自分よりも高い地位にある者、自分よりも幸福な状態にある者に対して起こる。』

 『しかも、嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である。』

 わかるなぁ・・・そのとおり!

 ベンツやBMW等の高級車に乗っている人を見かけると「こいつは、なんか悪いことして儲けているのか?」って自然に思ってしまう。本当に嫉妬深いんだなぁ!わたしゃ・・・

 嫉妬深い職場というものがある。それは、足の引っ張り合いばかりする職場だ・・・あの部署はいいな!あの人はいいな!あいつががダメ、いやおまえこそダメ!そんな職場、仕事ではサービス品質向上なんてなり得ないだろう。

 介護職員処遇改善交付金が今秋から導入される・・・介護職員だけが賃金アップ?介護事業所には事務員も、看護師も、相談員もいるが・・・さらに嫉妬深い職場になる可能性だってある!

 『嫉妬は他を個性として認めること、自分を個性として理解することを知らない。一般的なものに関してひとは嫉妬するのである。』

 そのとおりだぁ! 確かに親友がベンツやBMWにのってても嫉妬はしないなぁ・・・賃金は個性ではなく一般的なものだしなぁ・・・

  『人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないとはこの事実からも理解されるであろう。』

 仕事にはどうしても、自分でも気づかない個性が反映してしまう。

 もし、個性というものがあるなら、それは自分の仕事(こんな小さな文章もそうだが・・・)をとおして表現し、その表現がまた個性、自分をつくるのだと思う。

 個性を難しく考える必要もないと思う。

 個性には社会的側面がある。表現したいことがあれば、その表現されたものが個性だし、表現しようと意欲するその主体が個性だと思う。

 人生って個性を作る旅のようなものかも知れない。

 高齢者介護で個性の尊重というコンセプトがよくあるが・・・個性について深く考える必要があるように思う。

 お年寄り一人一人の表現したいこと、やりたいこと、実現したいこと、ありたいこと等々を探ることからお年寄りの主体がみえてくるのでは?

  

 

2009/6/15 月曜日

三木清の人生論ノート~孤独について~

Filed under: 人生論ノート — sukekawa @ 8:10:17

 孤独死が問題になっている。高齢者の孤独な生活を避けるため介護施設では家族的介護云々というキャッチフレーズで介護している!?

 個室は、入居者を孤独にする?って真顔でいう人がいる・・・しかし・・・

 『孤独というのは独居のことではない。』

 『孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるのである。』

 これは、よく分かる!出張で日曜日なんかに一人、繁華街をふらついていると妙に孤独感にさいなまれる・・・

 でも、そんな自分が妙に愛おしく感じたりもする・・・

 賑やかなバーで一人グラスを傾ける自分!その自分を後方斜め上45度からもう一人の自分が見つめている・・・なんかカッコいい????そんな自分に浸る、そんな自分を楽しむことがある・・・こりゃナルシストだ!

 『孤独には美的な誘惑がある。孤独には味わいがある。』

 孤独を否定的な側面のみでとらえるのは一面的すぎるように思う。

 孤独にも味わいってもんがあるのだから・・・

 いつも、あつまってわいわいがやがやすることだけが良いってわけではないだろう!一人の時間、孤独も人生のスパイスだ!

 暇だぁって感じるときと、孤独を感じるときとは違う。暇だぁって感じるときの視線は外に向かっているが、孤独だぁって感じるときの視線は自分に向かっている。

 ある意味、孤独は、自分を取り戻す!

 ここで、考えておきたいのは、プライバシーだ!

 プライバシー権の定義として有名なのは「Right to be let alone」だ!

 プライバシーとは一人になる権利だ!または、孤独を味わう権利でもある!

 もちろん、孤独だけだと、孤独しかないと、スパイスだけの料理って考えられないように、肝心の社会性を喪失しかねないけれど・・・適度なスパイス・孤独への配慮が大切ですね。入居施設では特に!

2009/6/14 日曜日

三木清の人生論ノート~怒について~

Filed under: 人生論ノート — sukekawa @ 7:56:00

 私は、よく怒りまくる!これで、ずいぶんと失敗してきた・・・

 福祉・介護の世界でも苦情が多くなってきている。しかも、苦情をいうお客様は怒っている! 

 この怒りについて十分考えておく必要があるようだ。 

1.怒は突発的・生理的

 三木先生曰く『すべての怒は突発的である。このことは怒の純粋性或いは単純性を示している。』

 また、『我々の怒の多くは気分的である。気分的なものは生理的なものに結びついている。』

 したがって、『怒を鎮めるには生理的な手段に訴えるのがよい。』

 本当にそうだ!空腹、睡眠不足等々の身体条件の悪いときは怒りやすい!

 怒っているお客様にジャスミンティーやココア等の鎮静効果のあるものをお出ししたり、ちょっとした甘いお菓子をだしたり、いろいろと対応に工夫してますものね。

2.名誉、人格にかかわる怒

 歳を重ねていくと、だんだん怒らなくなる・・・人間ができてきたからかな?でも、年寄りだって怒ることはある。

 怒の質を見分けられるようになりたいものです。

 何故、彼・彼女が怒っているのか?それを深いところまで遡及して考えられるようになりたいものです。

 『特に人間的といわれ得る怒は名誉心からの怒である。名誉心は個人意識と不可分である。怒において人間は無意識的にせよ自己が個人であること、独立の人格であることを示そうとするのである。』

 怒りは、ひととしての名誉や人格にかかわっていることが多いのでは?怒って当然ということも多々ある。

 怒るひとが悪いのではない、怒りを受け止め理解することが大切ってことかな?

3.価値指向と怒

 わたしは怒の基本形は歩いていて邪魔される、妨害されることじゃないかって思う。
 あるべき姿、正義とか公平とか、人権尊重とか自分なりの価値観、目標、目的への到達を邪魔されると腹が立つ!

 怒るひとは価値指向が強いと自己弁護しておこう!
 怒の内容を掘り下げ、そこに潜む価値をとりだし、明確にし、実現を阻む要素を洗い出すために怒と上手く付き合っていくことが大切だ。

2009/6/13 土曜日

三木清の人生論ノート~虚栄について~

Filed under: 人生論ノート — sukekawa @ 9:30:52

 あの人は虚栄心が強い!ってよくいったりするが・・・もちろん悪い意味に使うことが多い。

 しかし、三木先生曰く、『虚栄は人間的自然における最も普遍的なかつ最も固有な性格である。虚栄は人間の存在そのものである。人間は虚栄によって生きている。虚栄はあらゆる人間的なもののうち最も人間的なものである。』と!

 学生時代、この文章はかなりショックで、抵抗感をおぼえたが、半世紀以上も生きていると「そうだよなぁ」と思える。

 『虚栄心というのは自分があるよりも以上のものであることを示そうとする人間的なパッションである。』

 『人間が虚栄的であるということは、人間が社会的であることを示している。』

 老人介護施設の入居者たちには「虚栄心がみられない!」そう思うことがよくある。これは、彼らの向上意欲や社会性が衰退させられているからだ!ってことになるよなぁ・・・

 虚栄のなくなった老人は寂しすぎるような気もするが・・・彼ら、彼女らの虚栄を大切にすることは人間的パッションを大切にすることでもあるから・・・

 でも、やっぱ「貴方は虚栄心が強い!」っていわれたくはない。虚栄心が本当に強いかどうか関係なく、ムッとする!

 『虚栄は最も多くの場合消費と結びついている。』と三木先生はおっしゃる。そうだよなぁ虚栄心の強い人はブランド買いしてそうだもんなぁ・・・

 また、三木先生は『創造的な生活のみが虚栄を知らない。』ともいっている。そうだぁ!ブランドを買うのではなくブランドを自分で作ればいいのかぁ・・・???

 福祉・介護の世界にあっては、自分たちのサービスをブランド化していくような、創造的な仕事ができれば、それは、虚栄とは違うってことかな?

 

 

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